「赤い糸を紡ぐ者」  「たーまちゃん、おたまーちゃん…おたま…イテ!」  英樹の頬に3本線の引っかき傷ができた。  「うるさいわね!」  洞窟内に響きわたる大声で珠恵は叫んだ。  ここは埼玉県秩父市、最近公開されたばかりの関東一と言われる鍾乳 洞の中。珠恵の叫び声はエコーとなって洞内にこだましていった。  「お、おい…なにもこんな所で大声を出さなくても…他にも人が居る んだし…いい加減、機嫌を直してくれよ…え?おたまちゃん」 と、英樹が優しく背を向けている珠恵の肩に手をおいた瞬間、今度は平 手打ちが引っかき傷が出来た反対側の頬にとんできた。  「やい、おたま!優しくしてりゃ…この、いい加減にしろよ!!」  ぶたれた頬をさすりながら、強引に珠恵の肩を掴んで珠恵の体を英樹 の方に向き直らせた。  「あたしは、あんたの飼い猫じゃないんですからね!」  振り返ってキッと英樹を睨み付けた珠恵の目にはうっすらと涙が浮か んでいた。  珠恵が拗ねるのも無理はない、仕事で長いこと中東に行っていた恋人 の英樹が休暇で久々に日本に帰ってきて、つかの間の幸せを満喫できる と思っていたのに、待ち合わせの駅前のロータリーに横付けされた英樹 の車の後席には、幼い子供が座っていたのだから…子供の一人は英樹の 年の離れた弟であり、もう一人は英樹の姉の娘である。  英樹とは親子ほどの年の差があるこの弟は、英樹の親の恥かきっ子と して、他の兄弟から阻害されがちであり、弟が一番なついてるのが英樹 であることも珠恵は既に知っている。  しかし、こういう時には気を利かせてくれるのが当然と考える珠恵の 道理は、若干5歳の子供達に判ろうはずもなく、はしゃぎ回る子供達に せっかくのデートも台無しにされ、珠恵は段々腹が立ってきていたのだ。  「おにーちゃーん」  「ひげのおじちゃーん」  珠恵の大声を聞きつけてきたのだろうか、先に行った子供達が戻って きた。  英樹の姪の祐子は英樹に抱きつき、英樹の顔を見上げて心配そうに言 った。  「ひげのおじちゃん、けがしてるの?」  「大丈夫だよ、ちょっとそこで転んだんだよ」 と言って、英樹は珠恵の向かって片目を瞑った。  「ごめんなさいね、私驚いて大声だしちゃった…」 と、珠恵も心配顔をしている英樹の弟である翔太の視線までしゃがみ込 み翔太の頭を撫でながら言った。  心配そうに二人の顔をのぞき込む子供達に心配を掛けまいとして、必 死にその場を取り繕った。  「ひげのおじちゃん、はやくいこ」  姪の祐子に袖口を引っ張られて英樹は歩き出した。  洞内のあちこちに立ち止まっては幼い子供達に優しく一つ一つ丁寧に 説明をし、自分をおざなりにしている英樹の態度に珠恵はまた腹が立っ てきた。  「ひげのおじちゃん、あのながーいストローみたいのもしょうにゅう せきって言うの?」  祐子が手近なストロー状の鍾乳石を指さしていった。  「ああ、そうだよ、あれも鍾乳石の一つでね、ほーら、よく見てごら ん、ストローの先から水が落ちてるでしょ?地上の雨がこのストローを 通って流れているんだよ」  もっとよく見えるように、英樹が祐子を抱き上げた。  「注射の針みたい…」  珠恵が横から刺のある口を挟んだ。  「ん?そうみえるかい?」  そんな珠恵の言葉に英樹は怪訝そうな顔をして言った。  「ゆうこ、ちゅうしゃきらい」 そう言って祐子は英樹にしがみついた。  「だめだよ、子供をこわがらせちゃ…」 英樹は小声で言って珠恵を睨んだが、珠恵はそっぽを向いてしまった。  「ぼく、へいちゃらだもんね!」 と言って翔太は、先に駆けていった。  「おーい、気を付けるんだぞ!」 英樹は声を掛けたが、翔太はそんなことは意に介していないようであっ た…残された3人はゆっくりと洞内を巡り、出口に出てきた…  …しかし、出口に翔太の姿はなかった…  英樹と珠恵は翔太の名前を呼んだが、翔太は出てこなかった。  しばらく待っていたが、翔太が出てくる気配がいっこうに感じられな いので、  「しょうがないなぁ…俺はもう一度入り口から入って行くから、すま ないけど珠恵は出口から入っていってくれ」  こうなると、珠恵も心配になってきて、腹が立っていたことなどすっ かり忘れていた。  「判ったわ!」  英樹は祐子の手を引き、珠恵は一人で鍾乳洞の入り口と出口からそれ ぞれ入っていった…しかし、英樹が鍾乳洞を一回りして出口に出てきて も、珠恵と出会うことはなかった… * * * * * * * * *  『…誰…私の耳元で泣いているのは…』  珠恵はそっと目を開けた、しかし、周囲は闇に包まれ、彼女は自分自 身が本当に目を開けたのかどうか疑りたくなるような感覚であった。  珠恵がその身を闇夜の中で起こそうとしたとき、体中に激痛が走った。  「イタ…」  『そうか…立ち入り禁止の札の向こうに子供の泣き声を聞いて、入っ て行って…一瞬中に浮いたような気分になって…』  ハッと、珠恵は我に返った…  「ここは…」  しかし、周囲の闇はまだ珠恵の目を覆っていた。  彼女は自分の五感を鋭くした。  そして、自分の体の各所が痛んでいるのを知った。更に、右足の股に 感覚無いのを知って、おそるおそる自分の右股を触った…その手の感触 はなま暖かいぬるりとしたものが感じられた。その手を顔に近づけて、 それが血である事が判った…  『ち、血が出てる…』 もう一度おそるおそる右股を触ると、今度は右股に異物が刺さっている のがはっきりと感じられた。  泣き声はいまだに続いていた、珠恵は泣き声の主が翔太であると確信 し、しかも意外と側に翔太が居ると信じ、声を掛けてみることにした。  「うっ…しょ、翔太君?」 すると、泣き声が止んで泣き声の主は声を返した。  「だれ?」  「やっぱり…翔太君ね?私よお姉ちゃんよ」  「あ…おねえちゃん、どこ?暗くてなんにも見えないよ」  半べそ声で答える翔太に珠恵は声を掛け続けた。  「翔太君?大丈夫?痛いところはない?」  「体中がいたいよー!」  「翔太君動ける?」  「う、うん」  「じゃあ、お姉ちゃんの所に来られる?お姉ちゃん動けないの…」  「だいじょうぶ…?」  「ええ…大丈夫よ、お姉ちゃんが歌を歌ってあげるから歌が聞こえる 方にゆっくりと、這ってきなさい」  「うん」  「じゃぁ、歌うわよ」 と言って、珠恵は歌を歌い始めた…  …やがて、珠恵のそばに何かが近づいてくる感覚がして、そして翔太 の息が判るほど距離になった。  珠恵は暗闇に手を伸ばし、手探りで翔太の体を見つけると翔太を抱き 寄せた。  そして、翔太の体のあちこちを触れてみた…どうやら、翔太の方には 大した怪我はないらしい…  「お姉ちゃんこわいよー」  珠恵の胸で泣きじゃくる翔太に対して、  「翔太君、いつまで泣いているの!男の子でしょ!!」 と叱咤激励した。  しかし、珠恵の気丈ももう限界に近づいていた、右足の傷からの大量 な出血のせいだろうか、だんだん体が冷たくなって成ってくると共に意 識が朦朧としてきた。  「お姉ちゃん、なんかつめたくなってきた…」  心配そうな翔太の声が珠恵の胸元から聞こえてきた。  「だ…だいじょうぶ…でも、さむいわ…」  「ぼくがあたためてあげる、こうするとあたたかくなるって英樹にい ちゃんがいってた」 と言って、翔太は珠恵の体にしがみついてきた。小さな翔太の体は暖か く、翔太の心臓の鼓動を体に感じながら、珠恵も意識を失わないように 必死になっていた。  『この子だけでも助けなきゃ』  珠恵が、翔太を助けることを考え始めたときに、遠くから英樹の珠恵 と翔太を呼ぶ声が聞こえてきた。  「あ、英樹にいちゃん」  「英樹!」  珠恵は、翔太の背中を叩いて、  「いい、いちにのさんで、大声で英樹兄ちゃんの名前を呼ぶのよ!」  「うん!」  「せーの、いちにの…」  そして、二人は力一杯の声をあげて助けを求めた… * * * * * * * * *  洞内から救出され、入院した珠恵の元に英樹はろくに見舞うことが出 来ずに数日後、また中東に行ってしまった。  「あーんな奴、恋人にしなけりゃよかった…」 と珠恵が一人愚痴ていたある日、看護婦が大きな花束を持って入ってき た。  「萩野さん、可愛いお客さんがお見えですよ」 微笑んでいる看護婦の後ろに隠れている小さな子供を珠恵は見つけた。  「あら…どうしたのかなぁー、お姉ちゃんの所にお見舞いに来たんで しょう?」  看護婦は振り返って後ろに隠れていた子供を促すと、その子はおずお ずと出てきた。  「まあ…翔太君!」 珠恵は目を丸くして驚いたが、次の瞬間笑顔になった…そんな珠恵の枕 元に翔太は恐る恐る近づいていくと、  「おねぇちゃん」  「なあに?」 すると翔太はおずおずとポケットから手紙らしき物を出した。  「おねえちゃん…これ…」 翔太が震える手で差し出す手紙を受け取ると  「おねえちゃん…ごめんなさい!」 と一言言って翔太は病室から飛び出していった。  「あっ、待ちなさい!」 珠恵は呼び止めたが、翔太は既に病室の外であった…  珠恵が翔太から貰った手紙を広げて見ると、中にはこう書かれてあっ た。 「 たまえおねいちゃんへ、   このまえは、どうもごめんなさい。   ひできにいちゃんをきらいにならないでください。   はやくげんきになって、ひできにいちゃんとあそんでください。                          しょうた  」  珠恵はこの手紙を読んで、思わず吹き出した…  「早く直って、英樹と遊んでください…かぁ」 珠恵は天井を見上げて大きな溜息をついた。しかし、その顔は笑顔であ った。  そして、枕元にある英樹からのエアメールを取り出すと、  「英樹、あんた可愛い弟に救われたのよ!翔太君に感謝しなさい!!」 と言って、エアメールをはじいた。 藤次郎正秀